『トゥルーマン・ショー』

 正直なところ、自分としては論評するとこが特にない作品。いえ、悪いということではなく、始めの二十分くらい観たとこで中断しようとしてたのに、ずるずると一時間過ぎるまで止められなかったくらい引っ張るおもしろさはありました。

 ただ、この映画、劇中劇のような「メタ映画」になってて論じにくい。いつも自分は、脚本の整合性だったり、登場人物の動機や行動にリアリティ(説得力)があるだとか、そんなとこが気になってるんですが。この作品では、それがもとより「つくりごと」であると、「不自然なこと」であると、それが前提になっているので。それにしたって雑な部分はあるんだけど、これは「寓話」だから、の一言で片付けられる。

 果たしてトゥルーマンがどうやってこの虚構の世界から脱出するか、が骨子なわけですが、それでぐいぐいと引っ張ってくれはしたものの、ラストはわりと無難というか弱い印象。最後はなにかもうちょっと捻りか、力業で迫るかしてくれれば、と惜しまれるところ。

漫画喫茶(ネットカフェ)へ行った (2)

 6/21に行ったのだけど、記録しそびれていたので。この日、読んだのは『ちはやふる』(末次由紀)を5巻までと、前回に引き続き『進撃の巨人』。

 『進撃の巨人』は、たしかに巨人の謎だったり続きが気になる、引っ張る力はあるんだけど、どうしてもぱらぱら読み進めてしまえて、「読み応え」はいまひとつ軽い感じ。リヴァイ兵長なんか人気があるのは見聞きするんだけど、登場人物の魅力も、個人的にはそこまで解せてなくて乗り切れない。

 昨年は台湾でも、半沢直樹の「倍返し」と並んで、「進撃の」何々と接頭するのが流行語になるほどだったけど、本来そこまで広く親しまれる内容の漫画とは思えないのです。いえ、決しておもしろくないとかではなく、比較的グロい描写が多いという点で万人向けではない。『寄生獣』あたりの位置ならわかるのですけど。

 『ちはやふる』は、「和歌の漫画だよ」って話を耳にしてたのですが、競技かるた(百人一首)が題材なのですね。

 主人公が長身の美人、というあたりがカッコよくて、絵柄は個人的にはさほど好きではないんだけど、ちゃんと「美人」が描けているというあたりは実はすごいのではないかと。少し前に「漫画で"美人"が描けるのか」という議論を見かけて、つまり現実世界と違ってあくまで一人の作者が画を描いている以上、よほどの描き分け幅の技量がなければ、並の容貌と区別がつけられない、とう論題。アニメなんかでも、「美少女」扱いの登場人物と、背景に見える、名前もないその他大勢(クラスメートとか)の女の子がさほど変わらない絵柄だったりして、難しいなと思うわけです。そこのところ、『ちはやふる』の作者は描き分けできる顔立ちも多く、顔のみならず、人物の体型や年齢の描き分けもできてるあたり、すごいなと感心させられました。

 近江神宮には、大阪に住んでいたころ、私も二度ほど行ってみたことがあるんですが、ここがかるたの全国大会の会場で有名だとは知りませんでした。おそらくどこかに書いてあって読んだはずなのでしょうけど、そのときはかるたに興味もなかったので頭を素通りしてたと思われます。名所を訪れても故事や来歴と結びつかないと、あまり記憶に残らないことが多いので、今回、『ちはやふる』で点と点がひとつ繋がったのがなんだか嬉しい。

『いちから聞きたい放射線のほんとう』

 書名はかねてツイッターでよく目にしてはいました。購入に至った動機は、件の「福島の鼻血」の真偽が話題になったときに、実家で親が「放射線の影響で鼻血はあるのかもしれない」と言っていたのを聞いて、その疑念への回答になるかもと思ったから。

 読後感をまず言えば、私が期待したほどは「わかりやすく」はなかったです。書名の「いちから」や「ほんとう」あたりの「ひらがな」からも、もっと違った手ほどき的な印象があったかもしれません。

  良くも悪くも内容は「真摯」、「誠実」といったところ。よく言われるような「科学的に考えれば断言はできない」といった姿勢なのかと思いますが、そのぶん言葉の力というのは弱くなって、結局、人の不安につけ込んだデマや、あるいは安心したいという願望に都合のよい「わかりやすい話」、「明確な言い切り」への対抗にはこころもとない。

 難しいものは難しくしか説明できない。複雑なことを、わかりやすくと割り切りで丸めてしまえば、それは本来の形ではなく、わかった気にさせてくれるだけで、より深い理解のためには妨げになる。という主張を聞くことがあります。それが誠実な態度だとは思います。さりとて本書の序盤を占める、分子や原子の仕組みや構造の解説はいくぶん冗長で、どのあたりの知識レベルを読者層に想定しているのだろうかと疑問を感じた次第。

  終盤になって、著者の小峰氏が、郡山の実家を除染した話題が出てくるのですが(家の見取り図と、どの位置の線量が高かったなど)、構成としてはここを膨らませて本書の導入部に持ってきたほうがツカミがよかったのに。「実家がこんなふうに除染作業されました」、「線量がこれくらいだったのですが、だいじょうぶでしょうか」といった入りかたで興味を引いておいて、「じゃあ、"シーベルト"ってなんなのか、解説していきましょう」という流れにするとか。そういった読者への「おもてなし」を考慮すれば、より読みやすくなった部分もありそう。また、おかざき真里氏のイラストは、抽象的な「挿絵」がほとんどで、前述の原子模型などの解説的な図解には使われてないのが残念。レイアウトなど(行間や、話者のアイコン)もいまいち読みづらくて、デザイン部分も不満が残りました。

 私が期待していたのは『経済ってそういうことだったのか会議』ならぬ、『放射線ってそういうことだったのか会議』だったのだと思います。こちらは、竹中平蔵氏と佐藤雅彦氏の対談(経済学講義)で、学術的にどの程度正確かはともかく、素人が読んで非常に楽しく経済を理解できる内容になっています。

経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)
 

『サカサマのパテマ』

 『天空の城ラピュタ』を思わせる、いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」のSFファンタジー。エイジの父親が、空を飛ぶ機会を作っていたというあたりも似通っています。(それにしても、このテの「少年・少女主人公は両親を早く亡くしている」という設定はどうにも避けようのない定石なんでしょうか)

 予告映像を観たときには、「サカサマ」になっている状況がよくわからなかったのだけど、主役のパテマとエイジとは、それぞれが生きている世界の「重力の方向」そのものが正反対(と書いたところでわかりにくいが)。人だけではなく、それぞれの世界の物質には、服や食べ物などもすべて、その世界の重力が作用しているというわけ。このワンアイデアだけでも視覚的には意外とおもしろく、パテマとエイジ、それぞれの視点に入れ替わるときに、上下がくるっと反転するところもけっこうわくわくしました。どっちに重力がかかっているのか、二人の持ち物の重力方向も違うわけで、かなり混乱はします。

 尺が足りないのか、登場人物の掘り下げが浅いのは残念。パテマとエイジも出会ってすぐ親しくなるより、何か打ち解けるきっかけになる小さなエピソードを入れればよかったのではないかと。このへんはむしろ回想のエイジの父とラゴス(パテマと同じサカサマ人)の交流のほうがしっかり描けていたりします。登場人物をもうちょっと絞ってもよかったかもしれません。エイジに好意を持っているクラスメートの女の子も、一応いるだけという描き方なので省いてもよさそう。

 緩急の足りない演出も惜しまれるところ。お互いの重力方向が反対であることを利用して、パテマとエイジが手をつないで浮遊するのは前半の見せ場だと思うんですが、疾走感や爽快感がいまいち。塔の屋上に追いつめられ、警官隊に囲まれる場面も緊迫感がなかったり、と演出力に不足。

 それでも最後の種明かしは、私にはまったく読めてなかったので、お見事と言いたくなりました。勘のいい人なら、この世界の秘密を途中で予想できてしまうかもしれませんが。

漫画喫茶(ネットカフェ)へ行った

 読みたかった漫画が、ここ数年読んでいなかったので、溜まっていた。ダウンロード購入(電子書籍)も考えたのだが、なにしろ現在のところ印刷物と価格が同じでけっして安い感じがしない。小説も映画もそうだけど、漫画も一回読めば十分な作品がほとんどなので、手元に置く必要も少ないし。そんなわけで漫画喫茶(ネットカフェ)へ行ってきた。うちから最寄りの店でも、隣駅なので30分ちょっとかかってしまう。

 ひとまず、以前4、5巻まで読んで、続きが気になっていた『3月のライオン』から。「漫画って読むのこんなに時間かかったっけ?」と数年ぶりなので感じつつも、あまりパラパラと読み流したくない作品なので、腰をすえて読むことに。このあと気づいたけど、『3月のライオン』はページあたりの情報量が濃いので平均的な漫画よりも時間がかかるのだ。

 続いては、話題になってて読んでみたいと思っていた『進撃の巨人』。まったく初めて読むのだけど、この作者は画がまだ熟れていない、というのが最初の印象。技術的に下手、というわけではなく。そんなわけで、演出や構成技術的にもあまり読みやすい作品ではなかった。ミカサ・アッカーマンはかっこよく、魅力的だなとは思ったけど、ストーリーテリングの部分で引く部分があったかと聞かれれば難しいところではある。2巻ほど目を通しただけなので、この続きはまた他日。

皮膚科に行ってきた

 昨年末あたりから、全身に吹き出物ができて困っていたので、かねて考えていた皮膚科に行ってきた。今年の始めにも最寄りの皮膚科に行ったが、そのときは水虫の検査。

 結局、処方されたのはチョコラBBなんかと同じビタミンB錠剤。予防には、夜12時くらいには就寝する習慣をつけるようにとのこと。

 頬に、半年以上経っても消えない赤いできものがある、と相談したところ「それは血管腫です。毛細血管の腫瘍で、ニキビじゃないので消えません」と言われて拍子抜けした。

『キング・コング』(2005年版)

 近年観たなかでは最も悪趣味な映画でした。1933年版のリメイクだそうで、自分が小学生のころTV放映で観た『キングコング』(これは1976年版とのこと)が念頭にあったので、違いに驚きました。

 76年版は、時代設定を現代にしているせいか、自然保護や動物愛護的な視点が、現在のそれと比較的近いです。孤島に棲息していた珍種の大猿を捕獲して、都市で見世物にしようとしたものの、暴れだして手がつけられなくなったので銃殺してしまう、という大筋はどちらも同じものの、「近代文明の傲慢」を明確に描いているのは76年版でしょう。コングもずっと知的で、人間の女性と心を通わせる描写も丁寧(ジェシカ・ラングを滝浴びさせる場面は秀逸)で、観る者はコングに感情移入します。コングが高層ビルに登るのも、故郷の岩山を思い出して、という心理描写があり、またビルから落下した後もまだ意識があって、自分を取り囲んでいる人間たちを見つめていたりするところも印象的。

 一方、05年版はコングも銃で何発撃たれてもこたえない化け物のようだし、機銃を浴びても血も出ません(流血はレーティングの関係かもしれないが)。いくらオリジナルを基にしてるとはいえ、現代的にどうかと思う描写も多々あり。特に原住民なんかはおぞましいゾンビのようで、いくら架空の民族だとしてもこんな描き方をしていいのかと。

 3時間のうち2時間以上が、コングの住むドクロ島での場面に当てられ、そこに棲息する恐竜や巨大昆虫が動き回る「CGショー」です。このへんは「特撮ショー」だったオリジナルと同じ位置づけでしょう。

 ヒロインを演じたナオミ・ワッツはたいへん魅力的なのですが、それ以外はとても残念な作品になりました。