食のコンテクスト

林望氏の「いつも食べたい!」に、こんなことが書かれていた。

どこの地方であれ、なじみのない土地で、いきなりその土地の名物を味わってみたとても、その土地の人が味わい得ている「旨さ」を同じように感得することは、どうしたって期待されない。

たとえば、東京の蕎麦屋だって、とても美味しい店もあれば、論外に不味い店もあろう。けれども大半は、可もなし不可もなしという「ふつうの蕎麦屋の味」ではなかろうか。私どもは、子どものころからそれを食べ付けているから、東京の蕎麦ってのはだいたいこんなものだ、という凡庸なる蕎麦の味を知っている。そこから判定して、たとえば飛び切り上等の手打ち蕎麦の味に接したときに、東京の蕎麦の上乗とはどういうものかを味わい得るのではなかろうか。

 「基準」があってこそ、佳し悪しの判定ができる、ということだけど、これは小説や映画なんかでも同じかもしれない。

たとえば推理小説なんかは、たくさん読んでいる人だと持ってるおもしろさの水準がだいぶ違ってるんじゃないかと思う。もしそういった人が絶賛しておすすめしてくる作品があったとしても、自分なんかだとその分野の作品はほぼ読んでないので、おもしろさを理解できない蓋然性が高い。

あ、そう言うと「通好み」「玄人好み」とも似てるのだけど、それとも少し違う気がする。あるものをたくさん見ていればこそ基準値・平均値ができて、そこを起点にしてようやく度合いを計れる。

「食のコンテクスト(文脈)」みたいなものかな、と最初は思って標題にしたんだけど、以上書いてるうちにコンテクストともまた違うかなと考え直してるところ。

いつも食べたい! (ちくま文庫)

いつも食べたい! (ちくま文庫)